「Century books 人と思想」シリーズの本 既刊本リスト (清水書院) その8
大人の教養 / リベラルアーツ。
既刊本一覧 目次
I | 1-10 | 11-20 | 21-30 | 31-40 | 41-50 |
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II | 51-60 | 61-70 | 71-80 | 81-90 | 91-100 |
III | 101-110 | 111-120 | 121-130 | 131-140 | 141-150 |
IV | 151-160 | 161-170 | 171-180 | 181-190 | 191-200 |
「人と思想」 既刊本一覧 No.71〜80
71 | 平塚らいてう | 平塚らいてう (センチュリーブックス 人と思想 71) 小林登美枝 清水書院 1983-01 売り上げランキング : 1338836 |
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72 | フッサール | フッサール (センチュリーブックス 人と思想 72) 加藤精司 清水書院 1983-01 売り上げランキング : 919973 |
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73 | ゾラ | ゾラ (センチュリーブックス 人と思想 73) 尾崎和郎 清水書院 1983-01 売り上げランキング : 1425729 |
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74 | ボーヴォワール | ボーヴォワール (センチュリーブックス 人と思想 74) 村上益子 清水書院 1984-07 売り上げランキング : 1056603 |
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75 | カール・バルト | カール・バルト (Century Books―人と思想) 大島末男 清水書院 1986-04 売り上げランキング : 539653 |
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76 | ウィトゲンシュタイン | ウィトゲンシュタイン (Century Books―人と思想) 岡田雅勝 清水書院 1986-03 売り上げランキング : 959259 |
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77 | ショーペンハウアー | ショーペンハウアー (Century Books―人と思想) 遠山義孝 清水書院 1986-08 売り上げランキング : 671685 |
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78 | マックス・ヴェーバー | マックス=ヴェーバー (Century Books―人と思想) 住谷一彦 山田正範 小林純 清水書院 1987-03 売り上げランキング : 757317 |
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79 | D.H. ロレンス | D.H.ロレンス (Century Books―人と思想) 倉持三郎 清水書院 1987-11 売り上げランキング : 1237338 |
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80 | ヒューム | ヒューム (Century Books―人と思想) 泉谷周三郎 清水書院 1988-04 売り上げランキング : 857124 |
《内容》
71 | 平塚らいてう (wikipedia:平塚らいてう) 平塚らいてうの85年の足跡を見ると、さながら近代女性史を眺める思いである。長い封建のとばりに閉じこめられていた日本の女たちは、明治の末年に出現した「青鞜」によって、まばゆい青春の輝きをわがものとしたのである。「青鞜」の盟主らいてうが、その出発点から高らかにかかげた婦人解放の炬火は、今日に生きる女性たちの道しるべとして、今なお光を失ってはいない。かつての日のらいてうの主張のある部分は、いま全世界の婦人の合意によって生まれた「婦人に対するあらゆる形態の差別撤廃条約」(1979年、国連総会採択)の中にもりこまれている。このことは、「わたくしたちは永遠に失望しないでしょう」という言葉を残して世を去った、らいてうの霊にとっての、なによりの鎮魂といえるものであった。 (表カバー) |
72 | フッサール (wikipedia:エトムント・フッサール) 「事象そのものへ」をモットーとしてフッサールは20世紀哲学の新境地を拓いた。『論理学研究』から『学問の危機』にいたるまで、かれは言語・記号、時間意識、他者問題、相互主観性、生活世界など幾多の今日的話題を提供している。しかしまた、世紀の転回期に生きたかれは、明証性・純粋意識・超越論的(先験的)主観性など伝統的概念を使って思索している。それは古典的哲学者としてのフッサールの姿でもある。かれは伝統と革新の、新旧両思想の結節点である。それに加えて、厳密さを求める余りか、フッサールの分析・記述は人を辟易させるものがある。しかし、その難渋な叙述の背景に、さきの「事象へ」の精神は絶えず生きつづけている。 (表カバー) |
73 | ゾラ (wikipedia:エミール・ゾラ) エミール=ゾラは『ローゴン・マッカール双書』20巻を書いたフランスの偉大な小説家である。100余年前、ベスト・セラー作家として『ナナ』や『居酒屋』を発表していたころ、彼は露骨である、卑猥であるといってしばしば非難されたが、その作品の底にはヒューマンな同胞愛が脈打っている。ひとことでいえば、彼は社会的弱者に深い共感をもった社会派の小説家である。しかし、ゾラを小説家としてのみ評価することは適切ではない。彼は何よりすぐれたジャーナリストであった。彼が『ルーゴン・マッカール双書』を新しい時代の文学として定着させえたのも、また、ドレフュス事件を世界史的事件として浮上させえたのも、そのすぐれたジャーナリスト的才能によってである。 (表カバー) |
74 | ボーヴォワール (wikipedia:シモーヌ・ド・ボーヴォワール) ボーヴォーワルにあって、その天与の才能としてもっとも際立っているものは、幸福への才能である。彼女はのべている。「私は一生のうちで、自分ほど幸福に対する才能に恵まれた人間に会ったことはないし、また私ほど頑強にしゃにむに幸福に向かって突進していった人間を知らない。……もし人が栄光を私に差し出してくれたとしても、それが幸福に対する喪であったなら、私は栄光を拒否しただろう」と。女性という不利な条件のもとで、真面目と頑固に裏うちされた彼女の幸福へのがむしゃらな突進を、彼女の自伝は克明に語っている。その意味で、彼女の自伝は個性的な傑作である。彼女にとっては、書くことすら、この“生きる試み”の中の一つにすぎない。山を歩きまわり、自転車・車を乗りまわし、恋する、生気溢れる彼女の生涯と思想を捉えなおすことを試みた。 (表カバー) |
75 | カール・バルト (wikipedia:カール・バルト) バルト神学は、キリスト=イエスの御業、すなわちキリストの出来事、根源的歴史(原歴史)の視座から、神学各論を考察する。例えば、バルトは、そのアンセルムス研究によって自己の神学的立場を確立したが、これには二つの意味がある。第一はアンセルムスの神の名を神の啓示の出来事とみて、信仰の視座から自己の神学を確立したことである。この限り、バルト神学は聖書釈義に基づく神学である。第二に、アンセルムスの神の名は、神の名を聞いた者の思考の中に内在化された神概念(自由神学の立場)から、それに対する客体、つまり最高存在者(正統神学の立場)を経て、真に実在する神(神の現実性)を認識するまで、われわれを導く道を開通する神の啓示の出来事なのである。しかも、人間を神に導く唯一の道は、キリストであるから、バルト神学はキリスト論神学といわれるのであり、聖書の釈義と現代の時代精神を見事に統合した神学といえるのである。 (表カバー) |
76 | ウィトゲンシュタイン (wikipedia:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン) 私がウィトゲンシュタインに魅せられたのは“ことばの問題”であった。彼は、私がそれまでに触れたどの書よりも、言語を人間的な生に基礎づけていた。彼は、哲学の問題をことばの展望にみて、それを生の流れにおいて把握したのであった。彼の哲学研究は、人間的生の理解と深く結びついている。彼は自分の人生を振り返り、つぎのように語っている。「人は何度も躓き倒れるが、なすべきただ一つのことは立ち上がり、やり直し継続することだ。少なくともこのことが私の生涯でやらなければならなかったことであった」。彼は生涯不安や憂愁に悩まされ、激しい精神の苦悩に陥った。しかし彼は、何事にも情熱的で、純粋で、誠実であった。それだけ一層、産みの苦しみを通して綴られたウィトゲンシュタインの厳しい思索は、きっと私たちの生の真実の何かについて大いなる示唆を与えてくれるだろう。 (表カバー) |
77 | ショーペンハウアー (wikipedia:アルトゥル・ショーペンハウアー) ショーペンハウアーは「私の全哲学は一言で表現すれば、世界は意志の自己認識である」と言っている。つまり彼以前の哲学が、人間と世界とを理性を通じて観る立場の合理的世界観であったのに対し、新たに意志的世界観を打ち立てたのである。彼は、理性よりも意志に重きをおくことによって、「見るもの」と「見られるもの」の関係を離れ、「生きるもの」と「生きられる世界」という立場に立ったのである。それは理性の象徴であった近代科学と近代哲学の根幹に向けられた批判でもあった。そして現実の「生」を究明する過程で、ショーペンハウアーのペシミズムは形成された。この世が「最悪」であるからこそ、それにたち向かう連帯意識が必要とされ、ミットライト(共苦)が道徳の基礎となる愛の倫理学が生まれたのである。またショーペンハウアーは、東洋の思想を初めて西洋の哲学に移し入れた哲学者であり、この点の功績も大きい。 (表カバー) |
78 | マックス・ヴェーバー (wikipedia:マックス・ヴェーバー) 哲学者ヤスパースは、ヴェーバーを「我々の時代における蹉跌という意味の最も豊かな最も深い体験者」だとして、「ドイツ的実存」とよぶ。だが生身をもって悲劇的生を生きたヴェーバーは、眼前に生起する事象を「近代」という時代の相の下に捉えることによって、その作品群に彼の生きた時代と場所を超える生命を与えた。彼の著作は今日、社会史上にマルクスと双璧をなす位置を占めている。官僚制、合理化、支配の正当性、カリスマなど、彼の彫琢[チョウタク]した概念装置なしに現代社会の分析は行えぬほどである。しかし何よりも彼は、現代文明を「ひとうの合理化過程の所産」と捉えて、その意味を問うた。そうした作業は、自己の生と世界に意味を与えようとする姿勢にこそ支えらえる。と同時に人は意味を付与することの責任を要請される。彼の死後、半世紀以上を経た現在の不透明な状況に生きるわれわれは、それにどう答えるか。 (表カバー) |
79 | D.H. ロレンス (wikipedia:デーヴィッド・ハーバート・ローレンス) D.H.ロレンスは、わが国では、『チャタレー夫人の恋人』の作者としては知られているが、その生涯や思想について十分に知られているとはいえない。ややもすれば、「わいせつ」な作家として偏見をもって見られがちであり、その意図したことは正しく理解されていない。ロレンスは真摯な作家であり、真面目な意図から、これまでタブーとされてきたこを破ったのである。本書では、その思想がどのようなものであり、それがどのように形成されてきたかを、できるだけわかりやすい言葉で述べてみた。現代文明を批判し、人間はいかに生きるべきかを真剣に考えた、ロレンスの姿を広く知っていただえれば幸いである。 (表カバー) |
80 | ヒューム (wikipedia:デイヴィッド・ヒューム) ヒュームは、1739年から1752年にかけて、かれの哲学的成果を次々に公刊した。それは思想の流れの転換点を示すものであった。だが、主著『人性論』は、「印刷機から死んで産まれた」と書かれたように、ほとんど注目されなかった。それ以後も、ヒュームの思想の評価は、一般的には一面的で消極的なものであった。しかし、1960年代以降、ヒューム研究が哲学・宗教・政治・経済・歴史・社会思想の分野で着実に進められるとともに、ヒュームの多角的で独創的な思想内容がしだいに解明されるようになった。ヒュームは、人間学を基礎として諸学の完全な体系を構築しようとした。かれの視野の広さと鋭利な考察は、諸科学の分化と専門化のなかで混迷を続ける現代において、多くの示唆を与え続けるであろう。 (表カバー) |